コラム孫右ヱ門

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.4  「茶櫃(ちゃびつ)」「缶櫃(かんびつ)」


2015年7月3日

茶に纏わる道具の話が続きますが、今回は荒茶を保存するための茶櫃(ちゃびつ)についてお話します。
私たち茶業者は、茶櫃(ちゃびつ)と言わず、缶櫃(かんびつ)と呼びます。

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缶櫃の誕生は、今の「お茶屋さん」の原点である、宇治茶師たちの衰退に大いに関わりがあります。

江戸時代、宇治の茶師は、茶の興隆に合わせて、将軍家や大名、公家や社寺と強く結びつき、町人身分でありながら苗字帯刀を許されていました。
また、宇治茶師は幕府の御用茶師として、良茶を製する覆下栽培を特別に許されるなど、数百年にわたり手厚い庇護を受けていました。
この時代、宇治茶師が生産した茶は、すべてが碾茶でした。

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しかし幕末には、海外との貿易が始まり、宇治茶生産は不安定な状態に陥っていきました。
宇治の碾茶は良質ではありますが、コストが高く、輸出品には向きませんでした。

そして、1867年の大政奉還により幕藩体制が崩壊し、宇治の茶師は庇護者を失い販路を断たれます。
特権を失い、宇治以外の地でも大量に茶を生産するようになると、茶師は茶園を次々に手放し、宇治の茶業全体に危機が訪れました。

この時、長年茶師の権勢に圧迫されていた、茶師以外の茶製造者が玉露製法を完成させ、国内販路の開拓に努めました。
それがあのペットボトル茶で有名な「辻利」の創業者、辻利右衛門です。
辻利の創業は1860年(萬延元年)、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が起きた年です。

現在宇治茶存亡の危機を救った人物として、平等院門前に銅像が建てられています。

少しわかりにくいですが、宇治平等院を訪れた際には、門前右手をご覧ください。

20150702-IMG_5736この辻利右衛門、非常にアイデアマンだったそうで、玉露製法だけでなく、国内販路の開拓として、茶櫃(缶櫃)を考案しました。

それまでは、茶の保存や運搬には、写真のような茶壺を使用していましたが、防湿効果や積み上げることのできる長方形の形が運搬に便利であるということから、流通には利右衛門の缶櫃が主流となり、宇治茶は日本全国に再び広がっていきました。

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孫右ヱ門でも、製茶を終えた碾茶の荒茶を缶櫃に保存します。
缶櫃は、木箱で、箱の内側は隙間のないブリキ張りになっています。
木製の蓋も同じように、内側はブリキ張りになっています。

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缶櫃は、非常に密閉性が高いため、外気の温度、湿度の影響を受けにくく、お茶の劣化を防いでくれます。

孫右ヱ門では、近年まで、荒茶を入れて缶櫃のまま問屋さんに卸していました。
しかし缶櫃は、それ自体結構な重量がありますので、現在では、軽量で扱いやすい茶袋に主役を譲りました。

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現在孫右ヱ門にある缶櫃は、碾茶工場を竣工した昭和40年にたくさん仕入れたものですが、約50年経った今も、まだまだ現役で茶の品質を保ってくれています。

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ここ山城地方では、残念なことに、現在全ての缶櫃製造者さんが廃業されたと聞いています。
静岡でも缶櫃を製造されているのは、たったの6軒だとか。

缶櫃は防湿、防虫、断熱効果がありますので、お米や乾物、そして大切な衣類や写真、お雛様などの収納にも適しています。
古い缶櫃が、カフェのテーブルとして使われているのも目にしたことがあります。
木でできた缶櫃は見た目にもお洒落で、インテリアとしても使えそうですね。

時代の変化と共になくなるのは仕方がありませんが、宇治茶の危機を救った缶櫃が、新たな形で現代の生活に使われたら嬉しいと思う編集担当なのでした。