コラム孫右ヱ門

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.6 茶筅(ちゃせん)


2015年11月21日

棗や茶杓がなくても、茶筅と茶碗、それにお湯さえあれば抹茶が点てられます。
しかし、茶筅がなくては美味しい抹茶は点てられません。

今回はそんな抹茶を点てる必需品「茶筅」のお話です。

国産の茶筅生産のおよそ90%を占める、奈良県生駒市の北端にある高山町。
茶筅のことを知るため、高山町にある高山竹林園を訪れてみました。
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高山竹林園
約50種の標本竹からなる竹林園と、地場産業である茶筅や茶道具、その他竹製品に関する資料館がある施設です。

それではまず、茶筅の歴史について探っていきましょう。

世界で初めて茶筅がつくられたのは、室町中期のこと。

その頃、高山は鷹山村と呼ばれ、鷹山氏が支配する1万8千石の村でした。

この鷹山城主の次男、宗砌(そうぜい)は、連歌や和歌を通して、侘び茶(茶の湯)の創設者として有名な村田珠光と親しい間柄であったそうです。

珠光が初めて茶の葉を粉末にして飲む茶道を考案した時、なんとか茶をかき混ぜる道具はないものかと、鷹山の宗砌(そうぜい)に道具の制作を依頼しました。
宗砌(そうぜい)は、苦心を重ねて茶筅を作り上げました。

これが茶筅の始まりです。

茶筅ができるまでは、さじ(スプーン)で混ぜていたそうですよ。

宗砌(そうぜい)が製作した茶筅は、ときの御土御門天皇に献上され、天皇は、その繊細な作りと着想に感動し、「高穂(たかほ)」の御銘を授けたということです。
これを機に宗砌(そうぜい)は、茶筅づくりに力を入れ、その製法を鷹山家の秘伝としました。

その後、御銘「高穂茶筅」は有名となり、高穂にちなんで地名を高山と改めました。

高山城がなき後も、茶筅づくりを許された家臣16名により、秘伝の製法は固く守られ、「一子相伝の技」として500年もの間、その技術は受け継がれていきました。

時が流れて昭和に入っても、秘伝は固く守られてきましたが、戦時を迎え、人不足により、この伝承は崩れ、秘伝とされてきた技術も一般に公開されるようになったそうです。

現在、高山では、茶筌をつくる職人は20軒ほど。
茶筅は機械でつくることができず、現在でもその工程は全て手作業で、小刀等を用いて行います。

実際に作業工程を見せていただいたのでご紹介します。

1、原竹(げんちく)、コロ切り
竹内部の水分が最も少なくなる冬、生えてから2、3年の竹を切り出し、煮沸して油や垢を除きます。
その後、最も寒さが厳しくなる1月頃から約1ヶ月間、天日に晒します。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA竹が白くなると取り入れ、その後2~3年ほど熟成させてようやく茶筅の材料となります。
この竹を節を挟むように切り、円筒形の「コロ」にします。

使われる竹の種類としては、淡竹(白竹)、青竹、黒竹、煤竹(すすだけ)の4種類のみ。
煤竹は表千家が主に使用しますが、古民家の屋根に使用されて自然に煤がついたものを使うそうで、年々入手困難になってきています。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA写真左の竹は雲紋竹(うんもんちく)といって、雲の様な模様がもともと入った種類の竹で、今回作業を見せてくださった谷村丹後さんオリジナルのものです。

2.皮むき、大割り(おおわり)、片木(へぎ)
節の上半分くらいから先端にかけて、一番外側の表皮だけを薄く削ります。(皮むき)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
大割包丁で竹を等分に割っていきます。
割方は竹の太さや、作る穂数によって12~24等分にします。(大割り)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
これを1片ずつ外側にこじ開けます。
茶筅の抹茶を混ぜる部分は表皮だけを使うので、小刀で皮と身に分け、身を取り除いていきます。(片木)
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3.小割り(こわり)
大割り(おおわり)で分割した一片一片を、さらに大小交互の大きさに割っていきます。
大小のはおよそ6:4の太さの比率になっています。
大きい方は茶筅の外穂、小さい方は内穂になります。
OLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERA実演では、台にカミソリの刃をつけた道具を使われていましたが、道具は職人によってまちまちで、この日の職人さんは、もっと原始的な方法で割っていますとのこと。
その方法は、やはり秘伝なのだそうです。

4.味削り(あじけずり)
穂先の部分を湯に浸し、穂の内側を根元から先になるほど細くなるように削ります。
適当な薄さに削れたら、次は内側に丸くなるようにしごいて形をつけます。
削り方は茶筅のたちによって違い、この味削りによってお茶の味が変わると言われるほど、最も神経を使う難しい工程なのだそうです。
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5.面取り
削り上がった茶筅の外穂になる両角を薄く削って面取りします。
角を取るのは、抹茶を点てる時、お茶が付着しにくいようにするためです。
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6.下編み、上編み
面取りした外穂をおりあげ、糸で編んでいきます。下編みで穂を広げ、上編みで穂の根元がしっかりするよう固定します。
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面取りや下編み、上編みの作業は代々女の人の仕事とされてきたそうです。
この日は、秋の紅葉にちなんで、オレンジと黄色の糸で編まれていました。
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クリスマスには赤と緑の編み糸、海外からは国旗の色でといった注文も入るそうです。
色紐の茶筅は、正式なお茶会では使えませんが、自宅でお茶を愉しむときには、この様な可愛いマイ茶筅があると嬉しいですね。

7.腰並べ(こしならべ)
内穂を中心へ向かって寄せて組み合わせ、茶筅の大きさを決め、根元の高さと間隔を揃えます。

8.仕立て
穂先の乱れを直し、形を整え、穂先までの高さ、間隔を均等に整えます。
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海外製の安価な茶筅がたくさん手に入る時代になりましたが、形だけ真似して作っても、仕上がりには雲泥の差があると職人さんは言います。
「私たちはそれぞれ手に取った竹の性質を把握した上で、一本ずつ、ほとんど小刀と指先だけを使って作ります。海外のはヤスリで削ってあるから、穂先に細かい傷が残って折れやすいんです。それにそれぞれの竹の性質も見ていない。」

材料となる竹ひとつとっても、切り出す段階から厳選し、良い仕事ができる材料になるまでに何年もの歳月をかけて仕込んで行きます。
そして、流れ作業で大量に作るのと、一本一本竹の加減を見て、お茶を点てる人を想いながら丹念に仕上げるのでは全く違います。

茶筅はその用途から消耗品に扱われがちですが、こうして手作業により丁寧につくられた茶筅は、穂先一本一本、先の先まで神経が行き届いて、繊細でため息が出るほど美しい形の芸術作品と言えます。
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最後に、お庭を眺めながら、高山茶筅でお茶を一服いただきました。
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自前の茶筅より泡が随分とキメ細かい。
実際に使ってみて、その違いに驚きました。
ブレンダーでも抹茶は点てられますが、茶碗を傷めてしまいます。
柔らかくしなる竹という材質は、茶碗を傷めないという意味でも、大変理に適っているのです。
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お茶を愉しむ時間をより豊かなものにするためにも、美しい高山茶筅をマイ茶筅にいかがでしょうか?

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.5 茶臼(茶磨)


2015年9月4日

今回は抹茶の製造には欠かせない茶臼(茶磨)のお話です。

茶臼の材質は硬くキメの細かい花崗岩が使用されています。
古くは、宇治朝日山の花崗岩が最良とされていたようです。

茶臼には手挽き臼と、機械で回す機械臼があります。
手回し挽き茶
画像は、弊社の蔵から出てきた手挽きの茶臼です。
随分劣化していて、持ち手が外れそうなので紐で括ってあるような状態です。
現在は、機械臼で碾茶を挽いています。
機械臼

茶臼は上臼、下臼ともに8つの区画に、各10〜15本程度の溝(目)が切られています。
この両面を合わせて上臼を左回り(反時計回り)に回転させると、上下臼の目が45度の角度で交差し、多数のハサミで切られるように茶葉が粉砕される仕組みになっています。
上臼下臼
粉砕中の茶葉は、中心から上臼回転方向に移動しながら外側に向かって広がっていきます。
碾茶を挽いた後の上下臼の面を見れば、内側から外側に向かって粉が移動していることがよく分かります。
上臼面抹茶
茶用の石臼が他の石臼と違うのは、周縁部約5mmの幅には溝(目)がないことです。
この溝を切っていない部分を「外周平滑面(がいしゅうへいかつめん)」といって、最後にここで抹茶独特の細かい粉状に粉砕されるのです。
外周平滑面

現在、日本茶業中央会は、抹茶の定義を「覆い下で栽培された生葉を揉まないで乾燥した碾茶を茶臼で挽いて微粉状に製造したもの」と定めています。

しかし、なぜ抹茶は茶臼で挽かなければならないのでしょうか?
碾茶を粉末状にするのなら、ミキサーやミルではダメなのでしょうか?

抹茶の粒子の大きさは、だいたい粒径10μ(ミクロン)前後です。(1μ=1/1000mm)
目安として、食塩が約400μ(ミクロン)、小麦が50~150μ(ミクロン)、片栗粉が20~70μ(ミクロン)なので、抹茶の粉がいかに細かいかお分かりいただけると思います。

人間の舌は、粉の粒径が30μ(ミクロン)以上になると「ざらつき」を感じるといいます。
抹茶の粒径は10μ(ミクロン)前後ですから、口に含んだ時、ざらつきを覚えることのない、まろやかさを感じることができるのです。
パウダー
ミキサーやミルなど高速回転させて茶葉を粉砕することもできますが、茶葉の回転方向を揃えることができないので、どうしても粒の大きさが揃いません。

粒の大きさにムラがあると、抹茶特有のなめらかな口当たりや、抹茶を点てた時のクリーミーな泡を出すことができないのです。
クリーミー1

また、ミキサーやミルはどうしても熱を帯びます。
ミキサーやミルのように、高速回転により急激に熱が加わると、抹茶の色や香り、風味が損なわれてしまいます。

茶臼でも摩擦熱は発生するのですが、石でゆっくり挽くため、粉砕時の温度が上昇しにくいという利点があります。

室温20度で、開始から1時間経過してようやく臼の外周部の温度は50度近くになります。
この緩やかな加熱が抹茶特有の芳香を生成します。

香りを比べてみると、挽く前の碾茶と、挽いた後の抹茶では香りが違うことに気づいていただけると思います。
挽き抹茶

近年、茶臼に代わって、粒子をより細かくすることのできる「ジェットミル」が使われるようになりました。

金属容器に碾茶を入れ、外側から空気による噴射圧を加えることで中の茶葉を激しく動かします。
そうすることで、茶葉どうしが衝突を繰り返し、数ミクロンレベルの微粒子にまで細かくなるという機械です。

この「ジェットミル」は、容器内を舞う茶葉の回転方向を一定にすることも可能で、粉末の形や粒の大きさを均一にできるという優れものです。

標準的な茶臼1基で碾ける抹茶は、1時間回転させて僅か40g前後なのに対し、ジェットミルは効率的に多量の抹茶を生産することができます。

ちなみに手挽きの茶臼で40gの抹茶を挽こうと思うと、優に5時間はかかるでしょう。
筋肉痛になること間違いなしですね。

ジェットミルで挽いた粒子の細かい抹茶を点てて飲んでみると、味はおいしいけれど、抹茶特有の膨よかな質感がなく、シャバシャバした感じがします。
抹茶を飲み慣れた方なら、物足りなさを感じるかもしれませんね。
クリーミー2

いかに文明が発展しようとも、未だ茶臼に勝るものはないのです。

孫右ヱ門では、秋の深まる頃、手挽きの茶臼による挽き茶体験をしていただけるようなイベントを企画中です。
Facebook等でお知らせしますので、ぜひご参加下さい。
孫右ヱ門Facebookページ:https://www.facebook.com/magouemon.kyoto

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.4  「茶櫃(ちゃびつ)」「缶櫃(かんびつ)」


2015年7月3日

茶に纏わる道具の話が続きますが、今回は荒茶を保存するための茶櫃(ちゃびつ)についてお話します。
私たち茶業者は、茶櫃(ちゃびつ)と言わず、缶櫃(かんびつ)と呼びます。

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缶櫃の誕生は、今の「お茶屋さん」の原点である、宇治茶師たちの衰退に大いに関わりがあります。

江戸時代、宇治の茶師は、茶の興隆に合わせて、将軍家や大名、公家や社寺と強く結びつき、町人身分でありながら苗字帯刀を許されていました。
また、宇治茶師は幕府の御用茶師として、良茶を製する覆下栽培を特別に許されるなど、数百年にわたり手厚い庇護を受けていました。
この時代、宇治茶師が生産した茶は、すべてが碾茶でした。

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しかし幕末には、海外との貿易が始まり、宇治茶生産は不安定な状態に陥っていきました。
宇治の碾茶は良質ではありますが、コストが高く、輸出品には向きませんでした。

そして、1867年の大政奉還により幕藩体制が崩壊し、宇治の茶師は庇護者を失い販路を断たれます。
特権を失い、宇治以外の地でも大量に茶を生産するようになると、茶師は茶園を次々に手放し、宇治の茶業全体に危機が訪れました。

この時、長年茶師の権勢に圧迫されていた、茶師以外の茶製造者が玉露製法を完成させ、国内販路の開拓に努めました。
それがあのペットボトル茶で有名な「辻利」の創業者、辻利右衛門です。
辻利の創業は1860年(萬延元年)、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が起きた年です。

現在宇治茶存亡の危機を救った人物として、平等院門前に銅像が建てられています。

少しわかりにくいですが、宇治平等院を訪れた際には、門前右手をご覧ください。

20150702-IMG_5736この辻利右衛門、非常にアイデアマンだったそうで、玉露製法だけでなく、国内販路の開拓として、茶櫃(缶櫃)を考案しました。

それまでは、茶の保存や運搬には、写真のような茶壺を使用していましたが、防湿効果や積み上げることのできる長方形の形が運搬に便利であるということから、流通には利右衛門の缶櫃が主流となり、宇治茶は日本全国に再び広がっていきました。

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孫右ヱ門でも、製茶を終えた碾茶の荒茶を缶櫃に保存します。
缶櫃は、木箱で、箱の内側は隙間のないブリキ張りになっています。
木製の蓋も同じように、内側はブリキ張りになっています。

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缶櫃は、非常に密閉性が高いため、外気の温度、湿度の影響を受けにくく、お茶の劣化を防いでくれます。

孫右ヱ門では、近年まで、荒茶を入れて缶櫃のまま問屋さんに卸していました。
しかし缶櫃は、それ自体結構な重量がありますので、現在では、軽量で扱いやすい茶袋に主役を譲りました。

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現在孫右ヱ門にある缶櫃は、碾茶工場を竣工した昭和40年にたくさん仕入れたものですが、約50年経った今も、まだまだ現役で茶の品質を保ってくれています。

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ここ山城地方では、残念なことに、現在全ての缶櫃製造者さんが廃業されたと聞いています。
静岡でも缶櫃を製造されているのは、たったの6軒だとか。

缶櫃は防湿、防虫、断熱効果がありますので、お米や乾物、そして大切な衣類や写真、お雛様などの収納にも適しています。
古い缶櫃が、カフェのテーブルとして使われているのも目にしたことがあります。
木でできた缶櫃は見た目にもお洒落で、インテリアとしても使えそうですね。

時代の変化と共になくなるのは仕方がありませんが、宇治茶の危機を救った缶櫃が、新たな形で現代の生活に使われたら嬉しいと思う編集担当なのでした。

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.3 「宇治篩(うじぶるい)」と「ぼて」


2015年6月17日

全国茶品評会に出品する仕上げとして、荒茶の選別をする「お茶選り(おちゃより)」の作業もようやく終わりを迎えました。

「お茶選り」は、ピンセットで、色や外観の悪い碾茶をひとつひとつ取り除いていく、気の遠くなるような作業です。

そのお茶選りをする前に、竹製の篩(ふるい)を使って、選別しにくい細かな碾茶をふるい落とす「とおし」と呼ばれる作業をします。

そこで使うのが「宇治篩(うじぶるい)」と「ぼて」です。

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直径約130cm、子どもがすっぽりと収まってしまうほどのこの大きな容器は何でしょう?

これは「ぼて」又は「ぼてこ」と呼ばれるものです。

「ぼて」は宇治篩でふるい落とした細かな葉を受ける受け皿として使います。
底面が六角形、縁が円形の竹で編んだ容器に渋紙を貼り合わせたものです。

「ぼて」は小豆を入れたり、米を入れたり、昔は農家でよく見られた生活道具のようですが、これほど大きな「ぼて」は、茶農家や茶問屋でしか見られないのではないでしょうか?

茶葉をふるう受け皿として使うため、茶葉が飛び散らないよう、このように大きな形をしているのです。

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「宇治篩(うじぶるい)」は縁が藤で編み込まれ、網目が竹でつくられた篩(ふるい)です。

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細かな茶葉をふるい落とすだけでなく、網面の上の茶葉を手のひらでこすり、砕いて均一な大きさ整えるためにも使います。

網面の竹ひごには、適度なしなりと強度を得るため、真竹や孟宗竹ではなく、淡竹(ハチク)が使われています。

写真をよくご覧ください。

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網目の竹ひごの角が面取りしてあるのが分かるでしょうか?
実は、この細い竹ひごは、ひとつひとつ台形に面取りしてあるのです。
台形に面取りされた竹の網は、茶葉への当たりが柔らかいので、粉になりにくく、きれいに茶葉を砕くことができます。
金網の篩だと粉が多くなり、仕上がりの茶の色は白くなってしまいます。

現在は金網の篩が使われたりもしますが、やはり品評会に良質な碾茶を出品するためには、この竹製の篩が不可欠です。

以前は、京都府綴喜郡井出町多賀に一人、伝統的な宇治篩を作る職人さんがいたのですが、現在は残念ながら、宇治篩づくりのできる職人さんは一人もいなくなっていまいました。

孫右ヱ門では、同じく茶業を営んでいた親類から譲り受けたものを使っていましたが、昨年京都の横山竹材店さんに相談し、新たに宇治篩を作っていただきました。

(動画は「とおし」の作業です)

孫右ヱ門では、このような昔ながらの道具を大切に使いながら、できる限り手作業にこだわり、手間暇かけて伝統の味を守っています。

職人の手づくりによる道具の入手や修理が困難にはなってきましたが、横山竹材店さんのように、若い世代が伝統を受け継ぎ、文化を残してくださるのは有難いことです。
道具や材料も手に入りにくい時代ですが、その時代に見合った創意工夫を凝らし、次の世代に新たな伝統を繋げていかなければなりませんね。

ラジオ「孫右ヱ門の抹茶カフェ」アーカイブで横山竹材店さんの回をご覧いただけます。

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.2  碾茶炉と焙炉(ほいろ)じまい


2015年6月5日

今年の茶摘みも無事終わり、「焙炉(ほいろ)じまい」を行いました。

焙炉(ほいろ)じまいとは、製茶用乾燥炉の火を落とすこと、つまり製茶の終わることを言います。

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製茶の終わった工場では、一年の役目を終えた機械や道具が、眠りに入ったようにしんと静まり返り、つい先日までの熱気が嘘のようです。

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レンガ造りのクラシックな佇まい、孫右ヱ門の工場の中で一際存在感のある機械、それが碾茶炉(製茶の乾燥炉)です。

高さは約4m、幅は約15mほどもあります。

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蒸した茶葉を風で吹き上げ、葉に付いた余分な蒸し露を除去しながら冷却したのち、この碾茶炉で乾燥します。

碾茶炉は茶葉を乾燥させるだけでなく、適度な加熱香気を生成し、香味の調和をとる役割もあります。

碾茶炉の中は、一般的に上下二つの乾燥室に分かれています。

上段、中段、下段に設置されたベルトコンベアに散布した茶葉が、約15mのトンネル状の室を通る間に乾燥するしくみです。

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クラシックなレンガ造りなのは、炉内が200℃を超える高温となるので、耐熱性を考慮したためです。またレンガにより保温性を高くするという目的もあります。

 

碾茶炉での乾燥工程では、乾燥の度合いによって、外観の色や、香り、味が変わってくるため、都度茶葉を手に取り、色や匂いを確かめ機械を調整します。

手応えなく柔らかい感触なら、乾燥不足のためコンベアの速度を調節し、乾燥時間を延ばします。

乾燥していても黒みや焦げ臭を感じるときは、反対に乾燥時間を短くします。

少しの気温や天気の変化で、仕上がりが変わってくるため、その都度五感を働かせ、微調整をしなければなりません。

この炉の調整には熟練の感を必要とします。

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碾茶炉の仕組みは、生産家によって様々です。

品評会を狙うような生産家では、理想の仕上がりになるよう、それぞれ独自に機械をカスタマイズしています。

そのため、全く同じ機械というのはないかもしれません。

孫右ヱ門の工場でも、毎年、製茶機械の職人さんに頼んで微調整をしてもらっています。

先代、先々代は製茶機械の職人さんとともに、碾茶製造に欠かせないマイコン型バーナー、自動投入機などの開発に関わり、茶業界に貢献をしてきました。

こうして、毎年質の高い碾茶が仕上がるのは、先人たちの知恵と丁寧なモノづくりの心が詰まっているからです。

孫右ヱ門の碾茶炉は、今年も休むことなく、約1ヶ月間フル回転で頑張ってくれました。

本年のお役はこれで終わりましたが、先の時代も質の高い碾茶を作り続けるため、知恵を注ぎ、これからも大切にしていきたいです。

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.1 「よしず」とヨシ原のお話


2015年3月19日

今回は、弊社の「ほんず製法」には欠かせない道具、「よしず」の原料となる葦(あし)の草原、ヨシ原のお話です。

「ほんず製法」とは、一般的な化学繊維で茶畑を覆う方法とは違い、「よしず」と「わら」で日光を遮る伝統的製法のひとつです。
わら振りという技術の難しさや、よしずの入手が困難となってきたことにより、現在では弊社を含め、全国でもこの製法を行う農家は数件となりました。

「よしず」と「わら」の折り重なる層が、絶妙に日光を遮るので、柔らかく色鮮やかな茶葉が育ちます。

今年も茶棚に「よしず」を上げる季節が近づいてきました。
茶棚に上げる「よしず」は毎年全て新しいものに取り替えるのではなく、悪くなった部分だけよしずの原料となる葦(アシ)を買い足し、編んで補修をします。
弊社では、京都市伏見区の宇治川沿いにあるヨシ原の葦(アシ)を使用しています。

<ここで補足ですが、葦(アシ)は関西ではヨシと呼び、ヨシでできた製品を「よしず」と呼びます。葦もヨシも全く同じイネ科ヨシ属の多年草ですが、一般的に関西では「ヨシ」と呼ばれています。「あし」が「悪し」に通じるのを忌んで、その反対語の「よし」「善し」と言い換えたのが定着したと言われています。>

コラムでは、以後ヨシと表記します。

 

京都市伏見区、宇治川河川敷一帯にヨシ原はあります。

背の高いものでは4mにもなるヨシが一面に生えています。

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このヨシ原の管理者で、山城萱葺株式会社(http://www.yamashiro-kayabuki.co.jp)の代表、山田雅史さんにお話を伺いました。

編集担当:ヨシ原はどのくらいの広さがあるんですか?

山田さん:35ヘクタールほどです。

編集担当:このヨシ原は古くから管理されているのですか?

山田さん:

分かっているだけで、私で五代目になります。古くからこの地域のヨシは質が良いので、ヨシで生計を立てている人が多かったんです。

でも茅葺屋根が減り、中国から安価なよしずが入ってきて、ヨシの需要が減ってしまいました。

ですから、今では京都でヨシ屋をやっているのはうちだけになってしまいました。

元々はヨシを刈って茅葺職人さんなどに売っていましたが、茅葺のお得意さんもどんどん減って、残った職人さんも高齢化していく中、ヨシを売るだけではなく、自分で使わなければこのヨシ原は守れないと思いました。

それで、建築の勉強をしていた私は、自ら茅葺職人になりました。

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編集担当:山田さんのヨシ原では、ヨシは主にどんな用途に使われているのですか?

山田さん:

「よしず」としては、現在はほとんど取引がありません。
中国から安い「よしず」が入ってきましたからね。

今は、ほとんどのヨシは茅葺屋根に使っています。文化財や重要建造物の屋根の葺き替え、補修も多いですね。

あとは、「ヨシ紙」です。
祇園祭といえば「うちわ」ですけど、昨年、四条烏丸や烏丸御池で配られていた「うちわ」は、このヨシ原のヨシで作った紙が使われてたんですよ。

編集担当:中国産と国産の「よしず」はどのように違うのでしょうか?

山田さん:

国産のヨシは皮が薄いので、虫がつきにくいんです。繊維質も多くて弾力があるので、割れにくくて長持ちします。
また、中国の「よしず」は麻で編むのに対して、国産のはシュロ縄で編みます。
シュロ縄の方が耐久性が良いんです。

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編集担当:ヨシ原の管理とは、具体的にどのようなことをするのですか?

山田さん:

2月にヨシを刈って、その後、残ったヨシを倒して3月に火入れをします。
火入れをしてヨシ原を焼くことで、虫や他の雑草をきれいに除去できるんです。
そうすると、次の年にまた健康で良いヨシが生えてくるんです。

ヨシ原は人間が手を入れてあげないと、荒れて藪になってしまいます。
ヨシ原の保全という意味では、ヨシ焼きは欠かせないんです。

編集担当:この広いヨシ原を焼くのは大変ですね。

山田さん:

はい。

実は、そのヨシ焼きなんですが、4年前に一度禁止されてしまったんです。
2010年3月に、ヨシ焼きの煙で国道が一時通行止めになってしまいました。

それが廃棄物処理法の野焼きに当たるということで、禁止されてしまったんですよ。

編集担当:ヨシ焼きができなければ、茅葺の資材が取れないということですね。

山田さんの会社にとっても、ヨシ原の維持という面でも大変なことですね!

山田さん:

そうなんです。
でも、伏見の自然や歴史を受け継ぐ活動をしている市民団体が、ヨシ原保全のためのヨシ焼きの重要性を訴える活動を起こしてくださいました。
そんな市民団体の方々と協力しあって、2年前に無事ヨシ焼きを新たにスタートさせることができました。

このヨシ原は、西日本一の「ツバメのねぐら」 でもあります。
毎年数万羽ものツバメがやってきて、大陸へ渡るために飛ぶ練習をする様子が見られるんですよ。

そんな野鳥の宝庫でもあるヨシ原の生態系維持のためにも、ヨシ焼きは欠かせません。

そんな訴えを受けて、市は、ヨシ焼きを「河川管理に必要な廃棄物の焼却」として認めてくださいました。

そして新たに「新生ヨシ焼き」をスタートすることができたのです。

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編集担当:では、今年で「新生ヨシ焼き」3年目なんですね?ヨシ焼きはいつ頃行われるのですか?

山田さん:

今年は3/9~25日の間の5日間程度、午前5時半から午前10時ごろの間に行います。
風が強い日はヨシ焼きは行えません。また、燃え広がらないよう、夜露が降りて水分を適度に保った午前中に行います。

2010年のようになってしまったら、もう二度とヨシ焼きを行えなくなりますからね。

 

お話を伺った数日後、ヨシ焼きの現場を撮影するために、再びヨシ原を訪れました。

山田さんを含めた数人の職人さんたちが、火を入れては、都度消して回っておられました。
広いヨシ原を少しずつ、少しずつ、細心の注意を払って慎重に焼いている様子に、
長い間続けてきたヨシ原と人との関わりをずっと残していきたい、未来へ繋いでいきたいという山田さんの思いを感じました。

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弊社のほんず製法や手摘みも山田さんの茅葺も同じ、時代とともに減少の一途をたどっています。
しかし、完全に途絶えさせてしまっては、再生するのは非常に難しいものです。
どうにか文化を維持し、未来へ繋いでいきたいですね。

今回お世話になった山城萱葺株式会社では、ヨシや茅葺について知ることのできる様々な情報発信やイベントを行っておられます。
詳しくは、山城萱葺株式会社ホームページまたはFacebookページをご覧ください。

http://www.yamashiro-kayabuki.co.jp