コラム孫右ヱ門

コラム孫右ヱ門、暫くお休みさせていただきます


2016年5月12日

毎月2回お届けしておりますコラム孫右ヱ門ですが、

お茶のシーズン真っ只中、編集担当も製茶の作業に入るため、

誠に勝手ながら、製茶の作業が終わる6月末まで暫くお休みさせていただきます。

お茶のシーズンが終わりましたら、またお茶に纏わるお話や、孫右ヱ門に関わる方々をご紹介してまいります。

次回コラムの更新は7月上旬を予定しています。

引き続き、お茶に纏わる深〜いお話をお楽しみに。
茶選り

お茶にまつわるモノ・コト・道具vol.9 摘み子、茶選り女、茶業の女たち


2016年4月23日

夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘みじゃないか
茜だすきに菅(すげ)の笠 
     
    (文部省唱歌「茶摘み」より)

「茶摘み」というとやはりこの文部省唱歌が思い浮かびます。
しかし、歌にあるような、なだらかな畦に「茜だすきに菅の笠」という摘み子たちの光景は、煎茶の茶園のことであり、抹茶の原料である碾茶の茶園で見ることはできません。
碾茶の茶園は、昔なら葦簀(よしず)や籠(こも)、現在なら寒冷紗と呼ばれる黒い化学繊維の布で覆われています。
茶摘みの季節には、朝早くから摘み子さんが集まって来て、次々と覆われた薄暗い茶園の中に姿を消してゆきます。
これが碾茶園の茶摘みの光景なのです。
茶摘み絵葉書1
茶摘み絵葉書2(茶業鳥瞰図絵葉書: 近代茶業調查研究資料より)

古来より茶摘みは女性の仕事でした。
室町時代に完成した労働歌集「田植草紙朝歌二番」には、

宇治や栂尾の茶ゑんを見ればな
しんばかたちていまよいさかり
露ばはろふてつむろう寺の新茶を
女子にこほんのはちかな茶摘ませう
新茶を露もこめて摘まいて…

という一節があるように、茶摘みはもうこの頃から女性の仕事であったことが分かります。

かつて摘み子の確保には「引き手」と呼ばれる雇用仲介者がいました。
「引き手」は摘み子の確保、摘み子の管理や采配、オーナーとの賃金交渉に至るまでを取り仕切る摘み子のリーダーのような役割を果たす女性のことを言います。
引き手さんには、人望があり、度胸がすわった女性が選ばれたようです。

毎年秋頃から正月を迎えるまでに、「引き手」が屋号や家名を染め抜きした手拭いを一筋配れば、次の年の茶摘みの契約成立となったのだそうです。
現在でも「引き手」がいる茶園は残っていますが、摘み子の確保は、チラシでの募集や職業安定所に依るところが大きくなりました。
写真のお茶摘さん募集チラシは、弊社の古い資料の中から見つけたものです。昭和40年頃のもののようです。
お茶摘みチラシ碾茶の製造それぞれの工程には、その作業の性質上自ずから男性を中心に行うものと、女性が中心となって行うものが生じます。
昔から茶園の施肥や茶棚組み、覆いをかける作業、焙炉場での乾燥作業などは男性の仕事とされ、茶摘みや茶選り(ちゃより)などは女性の作業とされてきました。

茶選りは焙炉師が乾燥した茶の葉と茎を選り分ける作業のことで、全て女性の肉眼と手作業で行われてきました。
そのため、昔は焙炉師の数十倍もの茶選り女を雇い、鳥の羽毛や竹箸を器用に使って茶の葉一枚一枚を手作業で選り分けていたのです。
「服部式電気茶選別機」が発明されてからは、葉と茎は機械で選り分けられるようになったので、茶選りの仕事は品評会への出品茶にその技術を使うだけになりました。
20150514-IMG_4673茶業の女性の仕事は、茶摘み、茶選りばかりではありません。
茶農家の家の女性は、休む暇なく茶業に従事してきました。

茶摘みのシーズンは特に忙しく、「とまりやまさん」(近郊から泊りがけで出稼ぎにくる摘み子や焙炉師)の食事の準備や、「お間水(おけんずい)」と呼ばれる摘み子たちの間食の準備。
「中山(なかやま)」と呼ばれる茶期の折り返しに当たる日や、「籠やぶり」という製茶の終わりの日のご馳走の準備など、短い期間と言えど、毎朝誰よりも早く起き、日に何度も大勢の食事作りをするのは大変な労働であったでしょう。
茶のシーズンが終わると、夏には田植や草引き、秋は稲刈り、冬にはよしず編みなど休む暇はありません。
20150416-IMG_3826 のコピー現在は、とまりやまさんもなく、お間水を出すことも少なくなりましたが、それでも摘み子さんや茶選りさんの采配に気を遣い、来年もまた来てもらえるよう気配りするのは苦労が多いのではないでしょうか。

今年もあと1週間ほどで茶摘みのシーズンを迎えます。
覆下の茶園は、日増しに新芽の甘い香りが増してきています。
20150430-IMG_4261 のコピー長年「引き手」を担ってきた先代のおかみさんは、茶摘みの初日摘み子さんの顔を見るまでは安心できぬと言います。
摘み子さんや茶選さん、その裏で世話をする茶農家の女性たちなくして、美味しいお茶はできません。
今年も覆下に摘み子さんたちの賑やかな声が響きますように、無事に「籠やぶり」をむかえられますように。
茶業に従事する女たちも、今、一年で一番忙しい時期への準備を進めています。

参考資料:「京都府茶業百年史」、「くらしの中で見る女性ー京都府宇治市を中心としてー」岡本カヨ子、「宇治地方の民謡」財団法人 宇治市文化財愛護協会、「田植草紙」

茶園の四季vol.2 「すあげ」と「わら振り」


2016年4月8日

孫右ヱ門の茶園がある木津川には桜づつみと呼ばれる美しい桜並木が続いています。
20150330-IMG_3570桜が満開を迎えた先週のこと、孫右ヱ門の茶園では、茶棚に葦簀(よしず)を広げる「すあげ」の作業を行いました。
冬の間に補修しておいた葦簀(よしず)を、茶棚の上に上げて広げていきます。
20150324-IMG_3084
20150324-IMG_3069この状態で遮光率は55~60%になります。
少し薄暗い日陰にいるような感じです。

「よしず下10日 わら下10日」と言われ、「すあげ」作業の約10日後に、広げた葦簀(よしず)の上に藁を振る「わら振り」という作業を行います。
茶棚のパイプの上に足をかけ、広げたよしずの上に手にした藁を振り落としていくという大変難しい作業です。
20150418-IMG_3897これで遮光率は95~98%になります。
覆下にいると随分暗いと感じます。
20150324-IMG_3078

こうして遮光をすることにより、茶の旨み成分であるテアニンが渋み成分であるカテキンに変化するのを抑えることができます。
それだけでなく、日光を遮ることで茶葉がより柔らかく、色も鮮やかな緑色になります。
そして、「覆い香(おおいか)」と呼ばれる独特の香りが生まれるのです。

しかし、そもそもどうして茶園を葦簀(よしず)や藁で覆うようになったのでしょうか?

鎌倉時代、中国の禅僧栄西が、現在の京都市右京区栂尾(とがのお)にある高山寺の僧明恵(みょうえ)上人に茶の種子を贈ったのは有名なお話ですね。
明恵上人はその種を栂尾に播いて茶を育て、修行のための眠気覚しとして周りの僧侶たちに勧めたと言われています。
栂尾は山間の地形で日照時間の短い場所であり、そこで育った日陰のお茶が良質だとされ「天下一の茶」ともてはやされました。

しかし南北朝時代には「宇治茶」が台頭するようになります。
栂尾茶に代わって、宇治茶が茶人の賞賛を得るようになったのは、気候の適否や生産量の多寡などの理由の他に、宇治茶師の努力と工夫に依るところが大きかったようです。

その創意工夫の一つが、どうやら茶園を葦簀(よしず)や藁で覆う覆下栽培だったようです。

茶園にたまたま筵(むしろ)が乗っており、その部分だけが霜が当たらず、良い新芽が出てきたという説もありますが、詳しいことは未だ定かではありません。

しかし、霜除けを目的として葦(よし)や筵(むしろ)を被せたことが始まりだということは確かです。
やがて日陰育ちの茶が良いと気づき、以後長年、茶師たちによる改良・工夫が重ねられた末に、霜害を防ぎ、強風から茶の新芽を守り、遮光率を人為的にコントロールできるという利点を持った現在の覆下栽培の形が出来上がっていったのではないでしょうか。

さて、来週辺りには、わら振りの作業が始まります。
わら振りが終わると、いよいよ一年で最も茶園が賑やかになる茶摘みの季節が始まります。

孫右ヱ門では、今年もお茶摘み体験ツアーを行います。
20150514-IMG_4789のコピー新茶の手摘み体験、製茶工場見学、挽き茶体験、摘んだばかりの新芽の天ぷらと旬菜の松花堂弁当、抹茶の点て方ワークショップなど盛りだくさんな内容でお届けします。

日時:5月15日(日)9:15(近鉄富野荘駅2番出口)集合 14:00 解散予定
詳しくは下記、孫右ヱ門Facebookページをご覧ください。
https://www.facebook.com/events/1584753485175570/

その他、松花堂弁当はつきませんが、お茶摘み体験、製茶工場見学、碾茶体験のみのツアーも別日程で予定しております。

詳細は孫右ヱ門Facebookページにて随時お知らせします。

希少な碾茶の手摘み体験、そして摘みたての新茶を味わえるのもこの季節だけの贅沢です。
ぜひ皆様のご参加をお待ちしております。

お問合せ:株式会社 孫右ヱ門 TEL:0774-52-3232  MAIL: info@magouemon.com 
     ※お電話でのお問合せは平日9:00~18:00の間でお願いします。

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.8 「白」と「昔」


2016年3月19日

今回は、前回に引き続き「抹茶の御茶銘」についてのお話です。

抹茶をよく買われる方なら、末尾に「ナニナニの白」「ナニナニの昔」とつく茶銘が多いことにお気づきでしょう。

この「白」と「昔」の文字、
薄茶は「〜の白」で濃茶は「〜の昔」じゃない?と思われている方が多いかもしれません。
しかし、宇治市内に残る諸資料を当たっていると、どうやら「白」「昔」は薄茶と濃茶を区別するものではなかったことが分かってきました。
抹茶では、「白」「昔」の文字は一体何を表すものだったのでしょうか?
それはどうやら、抹茶の原料となる碾茶の製造方法に関わるもののようです。
20150514-IMG_4744

碾茶は、摘み取った生葉を蒸し、それを一旦冷ましてから焙炉(ほいろ)と呼ばれる乾燥炉の上で炙り乾かすというのが、古来より続く伝統的な製法です。
早い時期に摘み取った茶の新芽は、この蒸し製法で仕上げると非常に白っぽい抹茶になります。
こうして製茶された茶は「白」と呼ばれ、茶葉を蒸す製法は「白製法」と呼ばれていました。

それに対して、文献には「青製法」という言葉が出てきます。
古田織部が将軍家の御茶吟味役(毎年抹茶を試飲して、買い上げ品目を定める役)を務めていた慶長末年、宇治茶師の長井貞信によって工夫された製法が「青製法」と呼ばれていたようです。

「青製法」の資料は非常に少ないのですが、どうやら古来から続く「白製法」の生葉を蒸す替わりに、生葉を灰汁(あく)に浸した後、茹でてから炙り乾かす製茶方法だったようです。
灰汁は藁灰や木灰を水に浸した上澄み液のこと。
灰汁茶の芽が持つアントキアニンという成分が、この灰汁に含まれる塩基と反応すると、美しい青色(緑色)の碾茶に仕上がります。
浸して茹でるこうして湯引きする製法(青製法)で作られた碾茶が「青」と呼ばれていました。

古田織部に続いて御茶吟味役となった小堀遠州は、古来から続く白製法による「白茶」の最高級品を「初昔」と名付け、生葉を灰汁に浸してから茹でる青製法による「青茶」の最高級品を「後昔」と名付けました。
そして、将軍家の御茶御用を務める各宇治茶師が製茶する中では、「初昔」「後昔」よりも良いものはないというかたちを作り上げていきました。

お茶壷道中で知られる宇治の御茶師、上林家に残る「上林家前代記録」にも、
「初昔、後昔ハ公方家御好之風儀御茶極上之惣名故、茶師共何之家ニ而 も頭ニ立テ申候故、三番めよりハ其家之茶として面々存寄之銘ヲ付申候」
とあります。
「初昔」「後昔」は公方(将軍家)の好んだ極上の濃茶に付けられた茶銘であり、どの茶師もこの「初昔」「後昔」を筆頭の茶とし、どの銘柄もこれを上回るものがあってはならなかったということです。

この時代より後の宇治茶師の茶の価格表を見ても、初昔、後昔だけは別格。
桁違いに高価なことが分かりますよね!
御茶銘録1御茶銘2御茶銘3

元来、御茶銘の「白」は白製法で作った茶、そして「昔」の文字は、古来の伝統に即した、昔ながらの製法でつくられた茶という意味だったということが分かりました。

そして、これら「白」「昔」は全て濃茶のみに用いられた極上の碾茶の茶銘であって、薄茶として使用された碾茶には、固有の名前が付けられることはありませんでした。
薄茶にも茶銘が付けられるようになったのは、近代になってからのことです。
薄茶は元々は、濃茶用の碾茶を紙の袋に入れて茶壷の中に納める際に、その周囲の隙間を埋めるためにパッキンのように用いた「詰茶(つめちゃ)」であり、飲むためのものはなかったのです。
薄茶に固有の名前がつけられなかったのも分かりますね。
それにしてもなんて贅沢なことでしょうか?!
詰め茶

江戸時代の碾茶製造方法である、生葉を蒸す「白製法」と湯引きする「青製法」。
のちに青製法は途絶え、白製法のみが残り、進化して現在に至っています。

青製法がなぜ途絶えたのかは、資料や情報が少なすぎて、残念ながら分かりませんでした。

しかし、昨年数少ない文献を頼りに、この青製法にチャレンジした人がいます。
このコラムでも紹介したフリーランスの料理人兼茶道家の藤井忠さんです。(http://magouemon.com/column/people/people07/)

灰汁を作るところから、全て手作業で青製法の再現に取り組まれました。
全て手作業ゆえに、湯引きした葉を一枚一枚剥がす作業や、焙炉(ほいろ)の替わりに焙烙で煎る作業が大変だったようですが、さすがは茶道と製茶に精通した料理人さんです。
しっかりと青製法で碾茶を仕上げてこられました。
青と白
画像左が青製法で仕上げた碾茶。右が現在の白製法の技術で仕上げた碾茶です。
色を比べると、現在の白製法の方が緑色が鮮やかですが、江戸時代当時の白製法の技術では、碾茶はこのような鮮やかな色をしておらず、黄緑色だったと言われています。
黄緑色の抹茶しかなかった当時、青製法でできた鮮やかな緑色の碾茶は、非常に斬新だったのではないでしょうか?
味というよりは、黒い楽茶碗に映えるような新しい碾茶を作らせたかったのではないかな?と藤井忠さんは言います。
20141220-IMG_0061

今年は実際に乾燥炉や焙炉(ほいろ)を用いて、当時の製法にできるだけ近い形で再チャレンジするそうです。
昨年は灰汁に発色効果があったことを発見しましたが、今年はどんな発見をしてくれるでしょうか。

今後の良い茶作りのヒントになりそうで、とても楽しみにしています。

お茶に纏わるモノ・コト・道具vol.7 抹茶の御茶銘


2016年3月5日

お茶会の席で、抹茶を頂いた後、「先ほど頂戴したお茶の御銘は?」「お詰めは?」という問答があります。
「御銘」は「御茶銘」のことで、抹茶に付いている名前のこと。
「お詰め」というのは、抹茶の製造元のことです。
濃茶お茶屋さんに行けば、抹茶にそれぞれ名前が付いているのが分かります。
例えば、「初昔」「後昔」「関の白」「天授」「和光」「青嵐」…等々。
現在では、御茶銘はそれぞれに意味や由来を持ち、茶の湯に景色を添えるものとなりましたが、なぜ抹茶にそれぞれ名前が付けられるようになったのかご存知でしょうか?

茶銘の始まりは、茶園の区別をするための分類記号だったと言われています。

15世紀の末あたり(室町時代)から、碾茶を収めた茶袋に「無上」「別儀」「ソソリ」というような茶の良否や等級を表す言葉が記されるようになりました。
16世紀の後半(安土・桃山時代)になると、「無上」に代わり「極上」という表記が出てきます。
さらにその頃来日した宣教師ジョアン・ロドリゲスの著「日本教会史」には、最高品質の碾茶は、何も書かない白紙の袋に収められており、それを「白袋(しろぶくろ)」と呼んだと記されています。
茶壺に半袋ここまで出てきた「無上」や「別儀」と記された茶の名称は、碾茶の等級や品質を表すもので、今で言う「茶銘」に当たるものではありません。

「茶銘」が登場するのは、意外に遅く、江戸時代初期だと言われています。

抹茶の流通において「茶師」という存在は欠かせません。
茶師とは抹茶の生産に尽力した茶業家(おそらく現在の問屋+茶農家です)です。
当時から宇治の茶師は宇治茶を合組(ごうぐみ・主の葉に他の葉を混ぜることで色彩や香味の質を上げる方法)という方法で素晴らしい、より良いお茶を作っていました。

この頃の御茶銘は、茶師が数種類の茶を区別するためにつけていた記号にすぎませんでした。
例えば、当時の文献には「一の白」「いノ鷹」「綾の森」「宇文字むかし」など、数詞や茶園名を記したものが多く見られます。

茶壺に収められた数種類の碾茶、それぞれの半袋に記された茶の記号や名称は、たちまち雅趣を好むお茶人たちに注目され、茶の湯の中に一つの景色を添えるものとなりました。

江戸時代中期になると、茶に執心の大名や武家などが、出入りの宇治茶師に茶銘を付け与えるようになりました。
そこで命名されたものが「御銘」と呼ばれるものになりました。
つまり、茶師自身が名付けたお茶の名前は単なる「茶銘」。
大名や武家など敬意を表すべき顧客としての立場にある人が命銘した「茶銘」のみが「御銘」と呼ばれたようです。

近・現代になると、茶人や高僧など命銘した御茶銘が見られるようになりました。
御茶銘は、その茶の風味や茶席の景色を引き立てるものだけに、その命名には様々な心配りと、優れた美的センスが求められます。
弊社の抹茶にも「蒼穹」という御茶銘があります。
御茶入日記「どこまでも深く、どこまでも蒼い空のように、吸い込まれるような味わい。」という意味があります。
どこまでも蒼い空の下、風に揺れる茶園を思い浮かべてご賞味くだされば幸いです。
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参考文献:「京都府茶業百年史」、「日本教会史」
資料協力:上林記念館、宇治市歴史資料室

次回は御茶銘のお話の続き。
御茶銘に「昔」「白」という文字が多いのはなぜでしょう?
その謎に迫ります。

歴史vol.2 水主(みずし)の歴史


2016年2月20日

今回は、孫右ヱ門が位置する地元、水主(みずし)の歴史についてのお話です。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA木津川の右岸、孫右ヱ門の茶園のひとつ、「宮場」と呼んでいる茶畑のすぐ裏手に、こんもりとした森があります。
この森は、地元水主(みずし)の氏神様を祀る水主(みずし)神社の鎮守の森です。
この茶畑を「宮場」と呼んでいるのは、もともと宮馬場という地名で神社の境内の一部だったからです。
現在でも神社の石碑に宮馬場の文字が刻まれています。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

水主という地名は、全国の城下町・港町に所在する地名で、「水主衆(水夫)が集住する町」に由来するそうです。

「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(平安初期に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑)には、この地方に『水主直(みぬしのあたい)』という豪族がいて、水主直一族がその祖神を祀る氏神として水主神社を創建したという記述が残っています。(創建は5世紀中頃と推定されています)

水主氏は水の主であったと思われ、栗隅大溝(くりくまのおおうなで)と呼ばれる水路に、木津川から水を取り入れる水門管理を司った氏族だったと言われています。

水主神社は素佐之男(すさのお)の第五子・天照御魂神(あまてらすみたまのかみ)を筆頭に山背大国魂命神(やましろおおくにたまのみこと)まで十座を祀る延喜式に記載された大社です。

「祈雨の神」という記述もあり、平安時代中頃には、しばしば国家による雨乞いの対象になっており、水に関わる神社として国家から重視された神社だと言われています。

近代になってからも、水主神社の格の高さがうかがえるお話があります。
太平洋戦争の終戦間近に、この水主神社を守るため兵隊さんがたくさんやってきたと聞いたことがあります。

現在、水主神社は祭事のとき以外は神域に入ることはできません。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA鉄格子越しに、桧皮葺の本殿が見えましたが、厳かで風格のある本殿でした。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA本殿の左脇には、末社の一つである樺井月神社(かばいつきじんじゃ)の小さな社が見えます。
この樺井月神社は、もともと木津川の左岸にあったものが、氾濫で社地を失い、300年程前に水主神社の境内に移されたと伝えられています。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA樺井月神社は、狛犬ではなく水牛が社殿を守っています。
牛馬の疫病を鎮めるためとも言われていますが、牛が祀られていることからも農耕に関わる神様であることがわかりますね。

孫右ヱ門が位置する京都府城陽市は、川底が隆起してできた土地で、砂質土壌です。
そのためか、少し雨が降ると土砂崩れが起こり、荒水の被害に悩まされてきました。
また、木津川の度々の氾濫は、田畑を流し、人々は飢饉に苦しみました。
OLYMPUS DIGITAL CAMERAそのため、水主神社に限らず「水」に関係する神社が多く残っています。
城陽市の東部に位置する「水度神社(みとじんじゃ)もその一つ。
そして、城陽茶祭りが行われる「荒見神社(あらみじんじゃ)」も「荒見」は「荒水」の転字で、河川の氾濫による水害防除を祈って祀られた神社です。

また天満神社は現在では学問の神様のように言われていますが、江戸以前の天神信仰は、天神(雷神)に対する信仰のことですので、これも農耕や雨水に纏わる神社なのです。
このような天満神社も幾つか残っています。

弊社の茶園ができるずっと以前から、祖先は水と闘い、水とともに暮らしてきました。
現在も木津川は度々氾濫し、私どもの茶園も度々水に浸かっております。
砂質土壌で育つ茶の木は根がとても深いので、少々水に浸かっても流されてしまうことはないのですが、それでもせっかく撒いた肥料が流されてしまったり、流木を片付けるのはたいへん骨の折れる作業です。
自然の大きな力の前に、人々はなす術もなく神に祈ったのでしょう。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
先人たちの祈りに思いを馳せ、これからも茶園をお守りくださいと手を合わせました。

歳時記vol.7 ヨシ刈り


2016年2月4日

今日は立春です。
まだまだ外は寒いですが、暦の上では春が始まる日。
立春は一年の始まりとされて、決まりごとや季節の節目の起算日になっています。

「夏も近づく八十八夜…♪」と茶摘みを歌った唱歌がありますね。

地域の気候によっても異なりますが、弊社の茶園では、立春の今日を初日として、およそ八十八日目、5月2日頃に茶摘みの始まりを迎えます。

そんな茶摘みまでの冬の間、茶農家は何をしているかというと、茶園に施肥をし、茶棚を組み直し、茶園を覆うための寒冷紗や葦簀(よしず)の補修をするのです。
よしずは自然素材なので、風雨に晒されるとどうしても傷んでしまいます。

弊社は宇治川で採れた葦(ヨシ)を仕入れて、冬の間に傷んだ箇所を補修しています。

今回、編集担当は、弊社の茶づくりに欠かせない葦簀(よしず)の原料である、宇治川のヨシ刈りを体験しに行ってきました。
ご協力いただいたのは、以前このコラムでも紹介させていただいた宇治川のヨシ原を管理されている山城萱葺株式会社様と城陽いきもの調査隊の方々です。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA今回ヨシ刈り体験をさせていただいたのは、宇治川河川敷にある約35ヘクタールほどのヨシ原です。
宇治川のヨシは太くて丈夫なため、葦簀(よしず)の原料に最適で、宇治茶の生産にも大変寄与してきました。
ヨシの大きいものでは、4m近くにもなります。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA昔はヨシを扱う業者も多く、ヨシ原ももっと広大だったのですが、外国産の安価なよしずに押され、また弊社のように葦簀(よしず)を用いた伝統的な茶づくりをする農家が大幅に減少したため、ヨシ原を管理するのは、現在山城萱葺株式会社様たった一件となってしまいました。
現在は、そのほとんどが重要文化財の萱葺屋根などの用途に使われています。

歴史的にもこのヨシ原は古く、石田三成が秀吉からこの地域の葦(ヨシ)と荻(オギ)の権利をもらい、莫大な利益を得て、軍資金に活用したという逸話も残っています。
現在は機械で刈られていますが、今回の体験では三成の時代に思いを馳せて、鎌を用いて手で刈りました。

4m近くにもなるヨシを手で刈っていくのは、なかなか大変な作業です。
子どもたちも一生懸命頑張っていましたが、宇治川のヨシは本当に太くて丈夫です。
子どもの力では一本ずつしか刈れません。
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OLYMPUS DIGITAL CAMERA刈ったヨシはひとまとめにして束ね、テントのように立て掛けていきます。
あちらこちらにこのようなヨシのテントが並んでいる光景は、宇治川の冬の風物詩です。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA葦簀(よしず)は「ほんず製法」には欠かせません。
寒冷紗(黒い化学繊維)もよしずも霜除けのため、また茶園を遮光して茶葉の甘味、旨味を高めるためという目的は同じですが、
寒冷紗に比べて、葦簀(よしず)と藁で覆った方がなぜか旨味も香味も深くなります。
そして、大霜の時でも、寒冷紗より葦簀で覆った茶園の方が霜にやられなかったという経験もあります。
それは、ヨシの中が空洞になっているためだと言われています。
ヨシは日本家屋のように、湿度が高いときには湿度を含み、湿度が無い時に湿度を吐き出す効果があるのです。
それが化学繊維の寒冷紗との大きな違いです。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA近年、国産のヨシの確保は大変難しくなってきています。
自生しているヨシを活用しようとする動きもありますが、やはり人の手により管理されていないヨシは太さや形がバラバラで、なかなか使い物にはなりません。
この宇治川の冬の光景が、いつまでも受け継がれていくことを願い、一生懸命ヨシを刈らせていただきました。

協力:山城萱葺株式会社、城陽いきもの調査隊

歳時記vol.6 「お正月のお茶」のお話


2016年1月15日

2016年最初の記事は「お正月のお茶」についてのお話です。

おせちやお雑煮などお正月定番の食べ物がありますが、お茶にもお正月ならではのお茶があるのをご存知でしょうか?

それは「大福茶(おおぶくちゃ)」です。
京都を主とする関西で、お正月に新年の喜びと、その年の無病息災を祈って飲むお祝いのお茶で、梅干しと結び昆布にお茶を注いだものです。
注ぐお茶は煎茶や玄米茶など、お茶屋さんや家々によって様々です。
大福茶

大福茶のはじまりは、平安時代。
村上天皇が在位していた960年ごろのこと。
当時、京の都では疫病が流行していました。

そこで六波羅蜜寺(京都)の空也上人は、十一面観音を彫って車に乗せて市中を引き周り、祇園の南林に釜を掛け、茶葉を煎じて、八葉の蓮華にかたどった八つ割の茶筅で振り立て、中に梅干しと昆布を入れたものを仏前に供えて、病人にのませたところ、たちまち全快し、疫病も治まったと言われています。

その後、村上天皇がその徳にあやかって、毎年正月三ヶ日にこのお茶を飲むようになったことから、皇(王)服茶(天皇が飲むお茶)と言われるようになりました。

皇(王)服茶は、厄除け、幸福を招くという意味から「大福」の字が当てられ、以来正月の行事として庶民の間にも広まりました。現在でも、京都の六波羅蜜寺でが正月三ヶ日に大福茶が振舞われています。
お正月に京都を訪れる機会があれば、足を運んでみてはいかがでしょうか?

茶道の家元では、元日の朝に大福茶で祝うのがしきたりとなっているようです。
裏千家では、元日の朝、虎の刻(午前4時)に、当主が汲み上げた若水を沸かして、千利休居士の木像にお茶をお供えするのだそうです。
その後、家元のお点前で家族一同が濃茶を回し飲みし、この時お菓子の代わりに梅干しと昆布を食べるのだそうです。
この行事は、家元の家族や業躰(内弟子)先生のみ許されたもので、一般には目にすることができない行事です。

お正月のお茶といえば、もうひとつ、茶道の「初釜」があります。
「初釜」は新年最初に行うお茶会で、正月中旬ごろまでに催されます。
初釜は年の初めを寿ぐ意味で催すものですので、道具やしつらえ、お菓子や懐石も干支にちなんだものや、お正月らしいもの、めでたいもので揃えます。
初釜飾り
申の干菓子
懐石香の物 のコピー
例えば、初釜には必ず床の間か席の楊枝柱にある柳掛釘へ青竹の花入を掛け、枝を中間で結んで輪にして、残りは長く床に垂らします。
そして、「蓬莱山飾り」といって三宝に鏡餅のように炭を飾ります。
茶人にとって「炭」はとても大切なものですから、一年の茶の湯成就を願って特別な飾りが施されます。
蓬莱山飾
飾り方は様々で、写真は略の飾りですが、
正式には三宝に載せた奉書に裏白とゆずり葉を四方に敷き、洗い米を敷き詰め、奉書で巻いた炭の上に昆布、長熨斗を添え、上に橙、前に伊勢海老をもたせかけるといったような何とも豪華なものです。

そして、一年の最初の茶道という意味で、新鮮な「青竹」の道具を使います。
茶筅も、蓋置、花入も、懐石に使う箸も、すべて瑞々しい青竹を使います。
懐石香の物

昨今は三ヶ日でも色々なお店が開いていたりと、なかなかお正月らしい雰囲気を味わえず、一年の始まりを実感することも薄れてきたように思います。
しかし茶道は季節の恵みに感謝し、季節の移り変わりをとても大切にする文化ですので、初釜ではこれぞ「日本のお正月」を体験できるのではないでしょうか。
編集担当も一度体験したいものです。

コラム孫右ヱ門は、今年もお茶にまつわる様々なことや、孫右ヱ門に関わる様々な人についての記事をお届けしていきたいと思います。
本年もどうぞ宜しくお願いします。

<写真協力>YUI

今年も一年ありがとうございました。


2015年12月29日

師走は本当に字のごとく、慌ただしく駆けていきますね。
早いもので、年末のご挨拶をさせていただく時期となりました。

孫右ヱ門に関わる多くの方々に支えて頂き、今年も無事に終えることができました。
感謝の気持ちでいっぱいです。

「美味しく美しい最高級の抹茶をつくり、それを一人でも多くの方に伝える」

これを常に思いながら、一緒に歩んでくれる仲間とともに、来年もまた日々茶に向き合っていきます。

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今年も一年ありがとうございました。
皆様には、これからも変わらぬご交誼賜りますようお願い申し上げます。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA(孫右ヱ門スタッフ一同)

年始のコラムは第3週の更新となります。
引き続き宜しくお願いします。

ひとびとvo.5 陶芸家 清水志郎さん


2015年12月1日

陶芸家:清水志郎さん

<略歴>
京都五条坂に陶器屋三代目として生まれる。
陶芸家である祖父・清水卯一と、父・清水保孝のもとで育ち、自然と陶芸の道に進む。
祖父卯一、父保孝に師事し、2013年松ヶ崎に独立。
土にこだわり、京都で自ら土を掘り、自作の炭窯で焼き物に仕上げる。
焼物とは何かを知るために、現在も日々追求し続けている。
清水家HP http://www.shimizuke.net
OLYMPUS DIGITAL CAMERA孫右ヱ門との出会いは、京都にあるギャラリーYDS。
清水志郎さんの器を用いた食事会に孫右ヱ門が参加したことがきっかけでした。
孫右ヱ門は、そこで出会った清水さんの作品に惚れ込み、秋に行った孫右ヱ門オリジナルの口切りの儀には、清水さんの作品である茶碗を使わせていただきました。

今回は、孫右ヱ門が魅了された清水志郎さんの作品づくり、また清水さんご自身について、いろいろお話を伺いました。

編集担当:清水さんは、自ら掘った土を使って作品作りをされていますが、何か文献を頼りに
     土選びをされているのでしょうか?

清水志郎さん(以下「清水さん」):
     いいえ、最初は、行き当たりばったりでした。
     あ、今ここで工事してるから頼んで土もらってみようか…とか。
     「土出てませんか?」「どんな土や?」「陶芸に使うんですけど」
     「そんなん知らんわ、自分でみてくれ」みたいな。

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     その後、色々な情報を聞いたり、文献を調べて探すようになりました。
     鴨川の近くはヘドロが多いから使われへんなとか、
     東山連峰には清水焼、泉涌寺焼、日吉焼、八坂焼…等々、色々焼物がある。
     焼物があるってことは土があるよねと思って。
     じゃあ東大路、白川通りは狙い目だな、とか分かるようになりました。

編集担当:特に京都の土へのこだわりはありますか?

清水さん:いいえ、どこの土が良いとかはなくて、京都に限らずどこの土でも作ってみたいです。
     あえて言うなら、地元の土、近所の土にこだわってるのかなぁ。
     生まれ育った京都馬町の土は、僕にとってすごくリアルで面白いです。

     京都ブランドは有利ではあるんですけど、京都の土というだけでチヤホヤされてしまったら、
     自分の実力を勘違いしちゃうじゃないですか。そこで勝負はしたくないなぁと思います。
 
     あと、僕は人間国宝、清水卯一の孫ということで、有難いことの方が多いんですけど、
     清水志郎として見てもらえなくて、寂しい思いをしたこともあるので、
     冠だけで見るようなことは自分はしたくないなと思います。
     まぁ、したくないと思っている時点でしてしまってるんですけど。

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編集担当:焼物の土は使いやすいように混ぜて使うのが一般的だと思うのですが、清水さんは土を混ぜずに
     単味(単体)で使ってらっしゃいますよね?なぜ単味にこだわって土を使われるのでしょうか?

清水さん:作りやすい土で作っていると、上手くなったような気になってしまうし、
     それでは自分がダメになると思うんです。
     確かに単味には形の限界があります。

     今みたいに土の作業をしている時に、この土で何ができるかを考えるんです。
     きめ細かいから急須に向いてるかな?これはもう板皿にしかならんわとか。
     そう考えていると面白くて、僕はこの作り方をベースにしています。

     こうして自分に負荷をかける方が、必死で向き合うし本気になる。
     失敗も多いけど、できる限り粘りたいですね。

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この日、清水さんが使っていたのは五条坂の土。
手作業で土の中の石を取っています。
機械で精製するときれいに均一になりますが、それでは土の特徴が薄れてしまうと清水さんは言います。
砂利の方が多くて、手作業でも取り除けないこともあるけど、それはそれで面白い味が出るのだとか。

編集担当:次は清水さんの「人となり」についてお尋ねします。
     どこかの個展でのプロフィールに、「2009年、書道をはじめる/2011年、気功整体を学ぶ」とあった
     のですが、書道や気功整体は、清水さんの作品づくりに影響を与えているのでしょうか?

清水さん:書道や気功整体では、先生の影響も受けていますし、それに限らず、
     その時その時出会った人の影響って少なからず受けるものだと思います。

     気功整体は母の病気をきっかけに習い始めました。
     気功整体を練習する中で分かったことですけど、「治してやろう、治してやろう」と思った瞬間に
     全く効かなくなるんですね。
     でも相手を感じようとした瞬間に効いていく。
     そういう東洋的なところが、器づくりに通じているなと思いました。

     西洋の美術や現代アートは、いかに自己表現するかですけど、日本の美術や工芸は、
     いかに自分というものを後ろへ持って行くというか、相手を優先することにあります。

     例えば、器ならどんな料理を盛ると綺麗だろうかを優先すると、自然と自分というものが薄まって、
     美しい内側の見込みが出てきます。
     主張のあるものより、そういう日本的なものの方が、使っていても心地良いいなと思います。

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編集担当:清水さんにはお茶摘みツアー、口切りの儀など孫右ヱ門のイベントにも
     参加していただきましたね。孫右ヱ門の抹茶を飲まれた感想は?

清水さん:口切りの儀でいただいたお濃茶は美味しいなぁと思いましたね。
     今度は点てずに飲んでみたいです。
     泡を点てると美味しくなっちゃうじゃないですか(笑)だからそのままの味を試してみたい。

編集担当:すごく清水さんらしい感想ですね(笑)

編集担当:最後に清水さんのこれからについて教えてください。今後何かやってみたいことはありますか?
     個人的なことでも結構です。

清水さん:「一日一花生け」
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     昨日から始めたんですけど、一日一花を毎日生けること。
     先日、清水家主催のお茶会をしまして、その時に花を生けたんですけど、土壇場で当日、無理矢理
     山へ散歩に行って花を採ってきたんですね。
     そんな付け焼き刃なものじゃなくて、日常の中で花を生けることを習慣にした上で、茶会の時に、
     自然に生けられるようにしたいと思っています。

     あとは、「普通のことを普通にちゃんとできるようになりたい」ということでしょうか。
     僕の尊敬する備前の焼物の先生が、「直球で勝負できるように、いつでも直球を磨いておきなさい」
     とおっしゃられたんです。
     刺激の多い世の中で、変わったものが求められているけど、スタンダードの直球で勝負しようとしな
     いと生き残れないと思います。

     昔からあるものを勉強したり、本物を見て、本物に挑みたいです。50年後を目指して。
     50年後には、また20年後目指してとか言ってると思いますけど(笑)

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   あとは窯を作りたいです。今、庭にあるのは7号機。もう少し大きいものが入る8号機を作りたいです。
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清水さんの自宅兼工房の庭にあるのは自作の炭窯。
住宅地の中で、できる限り煙を出さないよう、炭窯を自作したのだとか。

今回、清水さんのご自宅でもある、松ヶ崎の工房にお邪魔しました。
掃除の行き届いた仕事場、目に見えないけれど、昔ながらの竹駒いの上に土壁を塗り、陶芸の白土を塗り重ねた壁など、住まいの至る所に、清水さんの本質を追求する心が宿っていました。

孫右ヱ門も惚れ込んだ清水さんの作品はとても魅力的です。
清水さんの日々の暮らし方、心のあり方、そのどれを取っても本質を目指すという一つのところへ行き着きます。
その果てしない探究心に頭が下がる思いでした。

来週よりギャラリーYDSにて、「Re:planter × 清水志郎 二人展 ~去~」が行なわれます。
ぜひ、清水さんの作品をご覧に、足をお運びください。

◆ 開 催 期 間 :2015年12月6日(日)~12月12日(土)
◆ 時   間  :11:00~19:00
◆ 場  所   :ショップ&ギャラリー YDS
◆ オープニングパーティー : 6日 PM 7 : 00~ 参加費2,000円
※VOLVER 宍倉 慈 さんによるビュッフェスタイルのお料理でのおもてなし。